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北海道哲学会『哲学年報』第54号、2007年7月、19-33頁

実践的必然性と道徳的責任

村上友一

はじめに

 「この世界の内で、否この世界の外においてさえ、無制限によいと見なしうるものがあるとすれば、それはただ善意志のみであって、それ以外には考えられない」[1]。この誇張的表現が示唆するように、私たちは行為の理解や評価において行為者の「意志」を重視している。行為者の意志を同定しなければ、身体行動だけでは行為を同定することさえできない(cf. 坂井, 1985, pp. 251-253)。道徳的責任の有無を考えるに際しても、行為者の意志が重視される。伝統的に採用されてきた道徳的責任を問うための条件は、他行為可能性(alternative possibilities)である。他のように行為することも可能であり、遂行/不遂行が行為者の「意志の自由」に存するとき、その者はその行為に対して道徳的責任があると言われる[2]

 しかし、いたずらに自由意志の存在を言挙げするだけでは、道徳的責任の本性に接近することはできない。行為の選択肢が際限なく増加するならば、私たちはD・C・デネットの描くロボットのように不決断に陥りかねない(Dennett, 1984a; cf. Frankfurt, 1988a, p. 177)。「不決断が(…)必要以上に長くつづき、行為に必要な時間を思案のために費やさせるようになると最悪である」[3]。適度な不自由さのゆえに不決断を免れていることは、私たちの実践的推論の利点とさえいえる。皮肉なことに、「意志の自由」は適度な不自由さの上に初めて成立するのである。本稿では、不自由さの極限である必然性に注目することによって、道徳的責任の本性への接近を試みる。

第一節 他行為可能性

 ルターはヴォルムス帝国議会において自説の撤回を求められて、「我ここに立つ、こうするよりほかない」と言い切った。デネットはこの例を引いて、他行為可能性がなかったというだけでは、非難や賞賛をやめるべき理由にはならないと主張する(Dennett, 1984b, p. 133)。しかし、ルターは彼が空を飛ぶことができないというのと同じ意味で、自説を撤回することができなかったわけではない。ルターが持てなかったのは「意志」であって「能力」ではない(Frankfurt, 1982, p. 86; cf. Dennett, 1984b, p. 133)。ルターに行為を選択する余地がなかったと考えるのは適切ではない。もちろん、その行為は賞賛または非難に値するという意味で、道徳的責任の問われうる行為である。それはルターが実際とは違った行為をすることもできたからであろうか。

 実際、Xの遂行に関して道徳的責任を問う際に、「Xしない能力をもつこと」だけでは十分ではない。赤ん坊はつねに泣いているわけでなく、その意味では泣かない能力をもつ。しかし、赤ん坊が泣いたからといって、それを非難するのは適切ではない。A・ケニーは選好が能力に結びつく二つの仕方を区別することによって、能力を三つの段階に区別している。

(一)Xすることを選択したならば、Xすることができる。
(二)Xすることを選択したときには、いつでもXすることができる。

 私たちは泣きたいときに泣くこともあれば、また泣くのをこらえることもある。これに対して、赤ん坊が泣いたり泣かなかったりするのは選好の結果ではない。私たちは(一)の意味での泣く能力をもつが、赤ん坊はこれをもたない。しかし、私たちは役者のように、泣こうと思えばいつでも泣くことができるわけではない。役者は(二)の意味での泣く能力をもつが、私たちはこれをもたない(Kenny, 1989, p. 70)。H・G・フランクフルトの表現を用いるならば、赤ん坊は「一階の欲求」(first order desire)に従うだけのwantonであるのに対して、私たちはそうした欲求の好ましさについて熟慮する能力、すなわち「二階の意志作用」(second order volition)をもつ。ただ欲求に従うことしかできない存在者に対して道徳的責任を問うことは適切ではない。しかし、選好の結果としてある欲求に従う存在者に対して道徳的責任を問うことは適切である(Frankfurt, 1971)。このように考えるならば、道徳的責任を問うための条件は次のように書き換えることができる。「Xしない能力があるにも拘わらず、自らの意志でXしたとき」。

 しかしながら、これだけではまだ道徳的責任を問うための条件を充分に捉えきれていない。能力と選好をもっていたとしても、つねに行為が遂行可能であるとは限らない。私は泳ぐことができて、泳ぎたいという欲求をもっていたとする。しかし、水がなければ泳ぐことはできないし、水があっても骨折していれば泳ぐことはできない(Kenny, 1989, pp. 68-69)。道徳的責任を問うための条件は次のように書き改められねばならない。 「Xしない能力があり、Xしないための諸条件が与えられているにも拘わらず、自らの意志でXしたとき」。もしルターに自説を撤回する能力があり、彼もまたそう意志していたのだとしても、それを妨げるような事情が存在したとすれば、やはり彼は自説を撤回することはできなかったことになる。その場合、彼は道徳的責任を問われえないことになる。

 しかし、ルターにそのような外的事情があったわけではない。彼が自説を撤回できなかったのは、ただ彼自身そう意志することができなかったからである。彼の性格が彼をして「こうするよりほかない」と言わしめたのである。R・ケインによれば、その時そのような人間であったことに対して、ルターは道徳的責任を問われうる。その人となりはそれまでの人生における様々な選択や行為を通じて形成されたのであり、それらの選択や行為においてさえ他の選択肢を選ぶ余地がなかったわけではない。ケインは他行為可能性という条件を回顧的に適用することによって、たとえ帝国議会におけるルターに他行為可能性がなかったとしても、その道徳的責任は問われうるとする(Kane, 1996, p. 39-40)。

 確かに、意志決定は自己の形成と保持に重要な役割を果たす(Frankfurt, 1983, p. 172)。それまでの人生に選択の余地がまったく無かったとすれば、その者の道徳的責任を問いうるとは考えがたい(cf. Kane, 1996, p. 40)。しかし、私たちは思い通りの自分になれるわけではない。気性や性格は選択に影響を与えるが、その形成は自らの意志の統制下にはない「構成的な運」(constitutive luck)に服する(Williams, 1976b, p. 20; Nagel, 1976, p. 33)。

第二節 合理性と意志の必然性

 他行為可能性の回顧的な適用によってルターの道徳的責任を説明することは、彼を重度の麻薬中毒者と同等に扱うことに他ならない(Watson, 2002, p. 137)。重度の麻薬中毒者は麻薬を差し控えようと意志することさえできないかもしれない。中毒症状は彼から「意志の自由」を奪い、彼を衝動に支配された存在者にしてしまう。しかし、麻薬中毒になる過程においてさえ彼が「意志の自由」を失っていたわけではない。他行為可能性の回顧的な適用によって道徳的責任を問うことは、ルターの道徳的責任を説明するのに充分ではない。宗教は阿片だと言ったことにおいて、マルクスが正しかったかどうかは別として、帝国議会のルターが「意志の自由」を失っていたとは思われない。

 ルターが「意志の自由」を失っていなかったのだとすれば、「こうするよりほかない」という彼の発言、その「意志の必然性」はどのように理解されるべきなのか。

 デネットは、ルターの発言を「合理的であるがゆえに他の行為は考えられない」の意味に解釈する(Dennett, 1984b, p. 133)。確かに、ある行為がその他よりも著しく好ましいとき、あるいは理由の比重が一方に圧倒的に傾斜しているとき、私たちとって他の行為は「考えられないこと」(unthinkable)となる(cf. Williams, 1981, p. 126)。AがBよりも私にとって圧倒的に好ましいとすれば、Bを選ぶことは私には考えられない。しかし、その圧倒的な好ましさの意味するところが「選好の強さ」に過ぎないとすれば、私がAを選ぶことは合理的ではあるが、しかし何ら賞賛される謂われはない。ルターの発言を「実践的推論の合理性」として理解するならば、自説への執着が露わとなるだけであろう。それはルターの声から私たちが聴き取るものではない。「頑なさ」はそれ自体としては何ら賞賛あるいは非難に値しない。騙し続けることが、誠実であり続けることと同じく賞賛に値するわけではない。

 B・ウィリアムズの指摘するように、合理性な実践的推論から他の行為が「考えられないこと」が帰結するには、その帰結を規定している目的や制約が、本人の変える気のないものであるだけで十分である。「しかし、実践的必然性(practical necessity)の深刻な事例では、必然性が制約や目的そのものに適用される」(Williams, 1981, p. 126)。

 実際、デネットが念頭に置いていた合理性も、実践的推論に対する制約の合理性であった。余りに不合理なことは、そもそも選択肢に上らないという意味で「考えられないこと」である(Dennett, 1984b, pp. 133-134)。もし指を掻くことで世界が滅亡してしまうのだと私が知っていたとすれば、それにも拘わらず指を掻くなどということは私には考えられないことである。指の痒さを世界の滅亡よりも重視するのは合理的ではない(Frankfurt, 1988a, pp. 184-185)[4]。しかし、苦境に立たされて自らの信ずる教説を撤回することは、それほど不合理なことなのだろうか。もしそうだとすれば、ローマ教皇庁の権力に屈して地動説を撤回したガリレイは不合理であったことになる。

 何かが不合理であることは、それが「考えられないこと」の理由とはなりうる。しかし、それが合理的であったというだけでは、その行為を賞賛すべき理由にはならない。一方、自己犠牲的な行為は賞賛すべきではあるが、それは時として不合理なものでありうる。合理性も不合理性も、それ自体としては、非難にも賞賛にも値しない。

第三節 意志の必然性と自己自身

 行為者にXする能力があり、また外的制約も存しないとき、それにも拘わらず、彼が「Xすることができない」と言うことがある。時として、そうした表現は「Xすべきでない」の誇張的表現に過ぎないこともある(cf. Williams, 1982, p. 125; 1992, p. 48; Watson, 2002, p. 138)。その場合、その行為の評価は行為Xを支持するか否かで相違することになる。ルターの発言もまた、そうした誇張的表現に過ぎなかったのであろうか。そうだとすれば、彼の行為はローマ・カトリックの側からは非難されるべきものとなり、プロテスタントの側からすれば賞賛されるべきものとなる。

 勇敢な兵士は敵にとっては迷惑な存在であり、無能な司令官は敵にとっては有難い存在である。しかし、勇敢な兵士は敵からも賞賛され、無能な将軍は敵からも蔑まれる。帝国議会におけるルターの行為もまた、いまや党派を超えて賞賛されているのではないか。ひとは彼の何を賞賛しているのか。ウィリアムズとフランクフルトに従うならば、それは「自己」すなわち「人となり」ということになる。そして、それを露わにするのは、ウィリアムズによれば「熟慮」(deliberation)であり、フランクフルトによれば「意志作用」(volition)である。

 ウィリアムズによれば、熟慮の結果として、「できないこと」や「せねばならぬこと」が明らかとなる。このとき、このような不可能性や必然性が、その者自身にも意のままにならない性格や性向として露わとなる[5]。それゆえ、そうした結論に達することは行為についての「決断」であると同時に、自己の「発見」でもある(Williams, 1992, pp. 52; 1982, p. 130)。特定の行為を不可能または必然的にするこうした制限を、ウィリアムズは「道徳的無能力」(moral incapacity)と名づける。身体能力の欠如や生理的嫌悪のような無能力が決定過程に対して入力として与えられるのに対して、道徳的無能力は出力として、すなわち「意志できない」という形式において発現する(Williams, 1992, p. 51)[6]

 フランクフルトはこうした状況を以下のように説明する。人格の本質は「意志の構造」に見出される(Frankfurt, 1971, p. 12)。そして、意志作用に課された必然性が、その人格に固有の本質すなわち自己自身の輪郭を描きだす(Frankfurt, 1982, p. 89; 1988a, pp. 187-188)。この意志的必然性(volitional necessity)はその者が何を大切にしているかによって定まり、その者にとって何が大切であるかは、その者が何を気づかっている(care)かよって定まる(Frankfurt, 1982, p. 80-81)。しかし、何を気づかうのかは本人の意のままになるものではなく(Frankfurt, 1982, p. 85)、従って、意志的必然性もまた本人の意のままになるものではない。「その者の注意がその対象に集中するのではなく、むしろ彼の注意がその対象に捉えられる」(Frankfurt, 1982, p. 89)。こうした事情にゆえに、意志的必然性は「熟慮の結果」ではなく、いわば「生の事実」(brute fact)であるとされる(Frankfurt, 2002, p. 161)。

 道徳的無能力ないし意志的必然性の下にあるとき、私たちは他のことをしようと意志することさえできなくなる。かくて行為は一意に定まる。しかし、心までもが一意に定まり、葛藤が消失してしまうとは限らない。ある貧しい母親は、子どもを養子に出すことが最善だと考えつつ、子どもを手放そうとは意志しえないかもしれない。あるいは、そうした意志を実効的なものとすることができないかもしれない(cf. Watson, 2002, pp. 147-151; Frankfurt, 1982, p. 90)。たとえば、これを次の二つの道徳的主張の対立として記述することもできる。

「子どもを養子に出すことが最善である」
「自分には子どもを養育する義務がある」

 この母親が子どもを手放すことができなかったとする。それは養育の義務を果たすことが、彼女にとって圧倒的に重要なことに思われたからであろうか。フランクフルトはそのようには考えない。彼女は養育の義務を果たすために、子どもを手放すことを止めたわけではない。彼女は子どもに対する「気づかい」のゆえに、その子が自分にとって余りに大切なものであったがゆえに、手放すことができなかったのである(cf. Frankfurt, 1982, p. 90)。

 子どもを手許に置いておくと決断した後でも、彼女は依然として「子どもを養子に出すことが最善である」と感じつづけるかもしれない。決断したからといって、葛藤が消去ないし緩和されるとは限らない。それは以前と同じくらい強いものであり続けることもありうる(Frankfurt, 1987, p. 172; Williams, 1982, p. 126)。

 この母親の問題を二つの道徳的主張の対立として理解するならば、義務論を採用するか功利主義を採用するかを決定することで解消されるのかもれない。しかし、決断してなお残りうる彼女の葛藤が、これが「道徳」の問題に尽きないことを示唆している。 「ひとはいかに生きるべきか」。ウィリアムズによれば、道徳的考慮とはこの問いに答えるに際して考慮されるべき諸々の考慮の一つにすぎない(Williams, 1985, p. 6)。この問いに対して「道徳」のみによって答えを与えることは望むべくもない。いかに「道徳」が大切なものだとしても、それは希望、誇り、友情、愛など、私たちが大切にしているものの一つにすぎない。この問いに答えるに際して考慮されるべき問題圏に対して、ウィリアムズは「倫理」という言葉を用いる(Williams, 1985, p. 6)。それは「何を気づかうべきか」、「何が大切なのか」が問われる、フランクフルトの問題圏と重なり合うように思われる(cf. Frankfurt, 1982, p. 80-82, 89)。私たちが自己と他者に向ける賞賛や非難、すなわち道徳的責任の問題も、実に「道徳」ではなく「倫理」の領域に属する。「道徳的人間」だからといって賞賛に値するとは限らない。人類愛のためにさえ嘘をつかない「道徳家」を私たちは嫌悪する。律法に心をくだく者が隣人となるわけではない[7]

第四節 行為の意味と道徳的責任

 「何かに責任を認めるとすれば、それは性格の表現である意志決定や行為に対して責任を認めるのでなければならない」(Williams, 1982, p. 130)。道徳的責任を問うことが人となりを問うことだとすれば、行為それ自体はもはや問題とはならないのだろうか。ネーゲルによれば、たとえ衝動を抑えることができたとしても、悪徳を有していることに変わりはなく、そのような者はたとえ何もしなかったとしても道徳的な非難に値する(Nagel, 1976, p. 33)。しかし、私たちは行為を通じてそこに行為者の人となりを見出すのであって、その者の人となりを直に見ることはできない。道徳的責任を考えるに際して、行為という契機を消してしまうことはできない。

 人となりが「構成的な運」に服するがゆえに、道徳的責任もまた「構成的な運」に左右される。そして、行為という契機を消去しえないことは、道徳的責任に更なる運を導入することになるように思われる。ネーゲルによれば、その行為がもたらす結果によっても、道徳的責任は左右されるからである(cf. Nagel, 1976, p. 28-30)。貧しい母子の人生をもう少し先まで想像してみる。

(A)彼女は子どもを養子に出す決心をする。子どもは裕福な家庭に引き取られて、養父と養母に愛されて、その中で健やかに成長していく。
(B)彼女は子どもを手許に置いておくことにする。彼女は貧しいながらも幸せな家庭を築き上げ、その中で子どもは健やかに成長していく。
(C)彼女は子どもを手許に置いておくことにする。しかし、やがて生活が立ちゆかなくなり、悲惨な親子は無理心中してしまう。

 おそらく、事態が(A)や(B)のように推移したとすれば、彼女自身は「行為者後悔」(agent-regret)を感じるかもしれないが、彼女の行為は周囲からは殆ど非難されないであろう。しかし、(C)のように推移したとすれば、子どもを手許に置いておくと決断したことにおいて、彼女の行為は(B)と違わないにも拘わらず、彼女の行為は周囲の非難を浴びるかもしれない。  J・M・フィッシャーによれば、「私たちの人生は「物語構造」(narrative structures)をもち」(Fischer, 1999, p. 288)、「私たちがある時点において行為するとき、私たちはその物語に一文を書き込んでいるのだと理解することができる」(Fischer, 1999, p. 290)。そして、「その意味は物語の他の文との関係によって、すなわち人生の物語構造全体によって固定される」(Fischer, 1999, pp. 290-291)。確かに、失恋した直後は余りに悲しくて、もう誰も好きになんてならないと固く決心する。それにも拘わらず、新たな出会いの中で、ひとは性懲りもなく再び恋に落ちていく。そして、かつてあんなに愛しかった人が、いまでは想い出されることさえない。

 行為や出来事の意味は、人生という物語の展開に応じてその意味を変えていく。しかし、そのことと道徳的責任はどのように関係しているのだろうか。貧しい母子の人生(A)をもう少し先まで想像してみる。

(D)彼女は子どもを養子に出す決心をする。子どもは裕福な家庭に引き取られて、養父と養母に愛されて、その中で健やかに成長していく。しかし、やがて実の母親に見捨てられたことを知った子どもは、その事実に深く傷つき、実の母親を恨むようになる。

 同じように子どもを手放すという行為が、(A)の記述の下よりも(D)の記述の下における方がより悪いことに感じられるかもしれない。(D)よりも更に先まで想像してみる。

(E)彼女は子どもを養子に出す決心をする。子どもは裕福な家庭に引き取られて、養父と養母に愛されて、その中で健やかに成長していく。しかし、やがて実の母親に見捨てられたことを知った子どもは、その事実に深く傷つき、実の母親を恨むようになる。やがて二人は再会を果たす。母親のやむを得ない事情を理解した子どもは、いまや恨むどころか、心から母親との再会を喜んでいる。

 その後を書き加えることで、同じように子どもを手放すという行為が(D)の場合よりも、少しは良いことに変わったであろうか。確かに、少しは後味のよい物語になったかもしれない。しかし、その後の経過をどれほど書き加えようとも、彼女が子どもを手放したのは一度きりでしかない。そして、それは子どもを傷つけるような行為であった。その後の経過がどのようなものであったとしても、彼女が子どもを手放した事実は変わらないし、それによって子どもが傷ついたという事実も変わらない。和解の時を迎えたからといって、悪かった行為が悪くなくなってしまうわけではない。ネーゲル自身が別の論文では次のように述べている。「裏切りに気づくと悲しくなるから裏切りは悪いことだと考えるよりも、裏切りが悪いことだから裏切りに気づくと悲しくなると考えた方が自然である」(Nagel, 1970, p. 5)[8]

 このように考えることで、たとえ子どもが養子先で幸せに暮らしていようとも、彼女が感じるであろう「行為者後悔」の意味がより理解可能なものとなる。その背景にあるのは、子どもを手放すことはそれ自体として悪いことだという彼女自身の認識である。状況や結果がどのようなものであろうと、決断が合理的で妥当なものであろうと、悪いことが悪くなくなるわけではない。ひとは時として「より悪くないこと」を選びうるのみである。端から見れば不合理とも思われるような「行為者後悔」は、そこから生まれてくる。

 状況や結果、決断の適切さに拘わらず、子どもを手放すことが悪いことなのだとすれば、(E)において生じているのは何なのだろうか。それが「正当化」ではないとすれば、おそらくは「赦し」であろう。物語の展開に応じてその意味を変えていくのは行為の意味だけではない。そこに登場する人物の人となりもまた物語の展開に応じて変わっていく(cf. Frankfurt, 1988a, p. 187-188; Williams, 1976a, pp. 5-10)。さまざまな外的要因を受けながら、自らの決断と行為を通じて自己は形成されてゆく。その営みは物語が終わるときまで止まることがない。そうした現象は非難する自己にも、非難される自己にも等しく起こる。性格、性向、認知構造など、自己を構成する諸要素が変容していく。そうした中で、過去の行為は意味を変えてゆく。その行為に対する態度や感情が変わっていく。あるいは、忘却の彼方へ沈んでゆく。私たちが「赦し」という言葉で名指しているのは、おそらく、そうした現象のことであるように思われる。

おわりに

 私たちは行為において自ら人となりを体現する。その人となりは自らの意のままにはならない「構成的な運」に服さざるをえない。「人間は自由で理性的な存在者であるがゆえに、自らのなしたことに責任を負わねばならない」。しかし、その自由は不自由さの上に初めて成立する。その行為を非難または賞賛する側もまた、そうした事情を免れてはいない。非難しようと意志して非難できるわけではなく、赦そうと意志して赦すことができるわけではない。不合理な「行為者後悔」は、その再帰的現象として理解することができる。

 そうした二つの自己が邂逅する地点に道徳的責任は成立する。精巧な時計の歯車のように滑らかに事態が推移するとは限らない。期せずして傷つけてしまうこともある。時として不合理な非難をしてしまうこともある。しかし、それもまた自然なことである。それぞれが意のままにはならない歴史を背負った自己なのだから。

[1] I. Kant, Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, Ak, IV, p. 393.
[2] 「意志の自由」をどのように理解するかについては見解の相違があり、かくて自由意志をめぐる論争が形成される(cf. Kane, 2002)。本稿ではこの論争にはコミットしない。本稿の意図はむしろこの論争の不毛さを示すことにある。
[3] R. Descartes, Passions de l’âme, sect. 170, AT, IX, p. 459.
[4] 「自分の指を掻くことよりも全世界の滅亡を選好したとしても、それは理性に反することではない。(…)より卓越した善に比してより些細な善であると自ら認めることを選好し、前者よりも後者に対して強い愛着をもつとしても、それは理性に反することではない。(…)情念が理性に反するためには、誤った判断が伴っていなければならない。その場合でさえ、不合理なのは情念ではなく判断なのである」(D. Hume, Treatise of Human Nature, II, iii, 3)。
[5] ただし、ウィリアムズによれば、その熟慮は意識されていなくても構わない(Williams, 1992, p. 52)。
[6] それゆえ、道徳的無能力としての「できない」は、「しないだろう」という予言的な含意をもつ。もし(意図的に)出来てしまったとすれば、道徳的無能力の帰属は間違いであったということになる。これに対して、「すべき」の誇張的表現としての「できない」には予言的な含意はない。もし意図的に出来てしまったとしても、依然として「すべきではなかった」と主張しつづけることができる(Williams, 1982, p. 128; 1992, p. 53)。
[7] 「ルカ福音書」、第十章、二五-三七節
[8] こうした見解は以下の見解とは相容れないように思われる。「独裁政権に対して暴力革命を起こす者は、それが失敗すれば空しい苦難に対して責任があるが、成功すれば結果によって正当化されるであろうと知っている」(Nagel, 1976, p. 31)。「ゴーギャンが正当化されるか否かは確かにある意味で運の問題である」(Williams, 1976b, p. 25)。もし暴力革命や妻子を棄てることが何らかの道徳的不正を含むのだとすれば、それが結果によって「正当化」されることはありえない。せいぜい「赦し」を期待しうるのみであろう。

文献表

Buss, Sarah & Overton, Lee (eds.) 2002 Contours of Agency: Essays on Themes from Harry Frankfurt, MIT Press.
Dennett, Daniel C. 1984a “Cognitive Wheels: The Frame Problem of AI,” in Christopher Hookway, ed., Minds, Machines and Evolution: Philosophical Studies, Cambridge: Cambridge University Press, pp. 129-151.[邦訳:ダニエル・デネット「コグニティヴ・ホイール ── 人工知能におけるフレーム問題」、信原幸弘訳、『現代思想』、十五巻、五号、一九九〇年、一二八-一五〇頁]
─── 1984b Elbow Room; The Varieties of Free Will Worth Wanting, MIT Press.
Fischer, John Martin 1999 “Responsibility and Self-expression,” in Journal of Ethics, 3, pp. 277-297.
Frankfurt, Harry G. 1971 “Freedom of Will and the Concept of a Person,” rep. in Frankfurt, 1988b, pp. 12-25.
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─── 1987 “Identification and Wholeheartedness,” rep. in Frankfurt, 1988b, pp. 159-176.
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Kane, Robert 1996 Significance of Free Will, Oxford UP.
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Kenny, Anthony 1989 The Metaphysics of Mind, Oxford UP.
Nagel, Thomas 1970 “Death,” rep. in, Nagel, 1979, pp. 1-10.
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Williams, Bernard 1976a “Person, Character and Morality,” rep. in Williams, 1981, pp. 1-19.
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─── 1985 Ethics and the Limits of Philosophy, Harvard UP.[邦訳:バナード・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』、森際康友・下川潔訳、産業図書、一九九三年]
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坂井昭宏 1985 「自由と責任 ── 二元論的探求」、坂井昭宏編『認識と行動』、培風館、二四八-二七一頁

付記:本稿は北海道哲学会(二〇〇六年七月一五日)、および平成十八年度科学研究費補助金基盤研究(B)「自己知と自己決定の倫理学的再吟味」(研究代表者、大庭健)の研究会(二〇〇六年八月二八日)における発表を大幅に加筆修正したものである。ご意見下さった方々、初期草稿から最終稿に至るまで半年以上に渡って議論にお付き合い頂いた都築貴博氏と西田伊知郎氏にこの場を借りてお礼申し上げる。
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