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平成10〜11年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(2))研究成果報告書
『「環境」・「情報」・「生命」の相互連関をめぐる哲学的基礎研究』(研究代表者、坂井昭宏)、2000年3月、53−59頁

非法則的一元論は道徳的責任を救うか

── J・M・フィッシャーの「半両立論」をめぐって

村上友一

はじめに

 伝統的に、道徳的責任は自由に関係づけられてきた。人間は自由な行為者であるがゆえに、自分の行動に責任をもたねばならないというわけである。しかし、決定論問題に直面することによって、この伝統は二つに分岐することになる。一方では、われわれ人間は自由意志をもつとする自由意志論(libertarianism)の伝統がある。この伝統においては、行為を選択する余地(alternative possibilities)があった場合にのみ、すなわち、実際とは違った行為を遂行できた場合にのみ、その行為は自由な行為と呼ばれる。このように捉えられた自由は、一般に「無差別の自由」(liberty of indifference)と呼ばれてきた。この無差別の自由によって道徳的責任を基礎づけようとした場合、決定論的世界において道徳的責任は問われえないことになる [1]

 決定論的世界に選択の余地はないからである。このような非両立論(incompatibilism)の伝統に対して、自由と決定論との両立可能性を主張する伝統がある。この両立論(compatibilism)の伝統においては、たとえ選択の余地なかったとしても、それが行為者自身の欲求に基づく行為である場合には、その行為は自由な行為と呼ばれる。このような決定論と両立可能な自由は、一般に「自発性の自由」(liberty of spontaneity)と呼ばれてきた。道徳的責任の基礎を自発性の自由に求めるならば、世界が決定論的であったとしても道徳的責任は問われうることになる。こうした立場は「柔らかい決定論」(soft determinism)とも呼ばれる。

 非両立論者によれば、道徳的責任を基礎づけるのに自発性の自由では不十分であり、両立論者によれば、無差別の自由は形而上学的幻想にすぎない。われわれはこうした対立図式の中で、そのどちらかを選択せねばならないのであろうか。必ずしもそうではない。H・G・フランクフルトの非両立論批判(本報告書、69〜70頁参照)は、同時に両立論に対しても有効であるように思われる。そして、フランクフルトの議論を基礎として展開されたJ・M・フィッシャーの「半両立論」(semicompatibilism)は、両立論者や非両立論者に対する第三の選択肢を示唆しているように思われる。以下では、これらの点を確認した上で(1、2節)、半両立論の基礎づけへと議論は進められる(3、4節)。これはフィッシャーの関心が専らフランクフルトの含意を汲むことに向けられ、半両立論がどのような前提に基づくのかについては余り顧みられていないように思われるからである。本稿では、W・グラナンの指摘に従って、「非法則的一元論」(anomalous monism)が半両立論の基礎理論として取り上げられる。このように半両立論の全体像を明らかにすることによって、われわれは初めてそれを評価する視点に立つことができるであろう。

1 フランクフルトの反例

 フランクフルトが非両立論に対して提示した反例は、概ね以下のようなものであった。Aは自分では気づかないうちに、Bによって脳に装置を埋め込まれている。Bは熱心な民主党支持者であり、Aは日和見的な民主党支持者である。もしAが心変わりしようものなら、Bは脳に埋め込んだ装置によって心変わりを察知し、その装置を駆使してAの思考を初期状態に戻してしまう。Bはそうした操作を繰り返すことによって、Aに民主党候補に投票させようと目論んでいる。このような条件の下で、Aは心変わりすることなく民主党候補に投票したとしよう。この場合、Aは民主党候補に投票するという行為について道徳的責任を問われうるであろうか。前提により、Aは共和党候補に投票することができない。したがって、選択の余地を道徳的責任の必要条件とするならば、Aは道徳的責任を問われえないことになる。しかし、Bはモニターを観察するだけで、実際には何もAに対して働きかけなかったのであるから、Aはこの行為について道徳的責任を問われてもよいように思われる。このような直観は、フランクフルトによれば、選択の余地を道徳的責任の必要条件とみなす非両立論者の誤りを示すものである(Fischer, 1994, pp. 131-2 ; cf. Frunkfurt, 1969, pp. 834-39 ; 本報告書、70頁) [2]

 両立論者がAの道徳的責任を問うことになるのは明らかであろう。この反例において、Aは自らの欲求にしたがって行為しているからである。その意味では、フランクフルトは両立論の伝統に立っているに過ぎないようにも見える。しかし、この反例の含意をもう少し検討してみるならば、それが両立論に対しても反例となっていることが解るであろう。実際、Bの強制が働いたときにAの道徳的責任が無効になることは、この反例における自明の前提といってよい。しかし、両立論者はこの前提を確保しえないように思われるのである。

この点を示すために、実際にBの強制が働いたと仮定しよう。この場合にも、Aは民主党候補に投票しようという意図をもち、それに従って民主党候補に投票することになる。しかし、この意図は誰のものなのだろうか。Bによって強制的に持たされているとはいえ、やはりAの意図なのだろうか。そのように考えるならば、Aに道徳的責任が生ずることになる。それとも、それは強制しているBの意図であるのだから、Aに道徳的責任はないと考えるべきであろうか。おそらく、R・M・チザムであれば、そのように考えるであろう。チザムによれば、道徳的責任が問われうるためには、その行為は強制や因果的必然性を免れていなければならない。行為を生起させるとき、われわれは「不動の動者」のごとき特権を行使しているのであり、また、そうした仕方で行為に関与しているがゆえに、われわれはその行為に対して道徳的責任を問われうるのである(Chisholm, 1966, pp. 17-23) [3]。 このような考えに基づいて、第三者の強制によって道徳的責任が無効になると考えるのであれば、因果法則による強制もまた道徳的責任を無効にすることになろう。その場合、チザムとともに、決定論と道徳的責任との両立を断念せねばならなくなる。これは両立論者であることを断念することに他ならない。

 もし両立論者がその基本的主張を維持しようとするならば、Bの強制が働いている場合であれ働いていない場合であれ、Aに道徳的責任があると考えねばならない。しかし、その場合には、フランクフルトの批判は両立論に対しても有効なものとなる。どちらの場合にも道徳的責任は問われえないとする非両立論がわれわれの直観に反するとすれば、どちらの場合にも道徳的責任は問われうるとする両立論もまたわれわれの直観に反するからである。しかしながら、フランクフルト自身は、自らの反例が両立論に対しても有効であることを十分に自覚していなかったように思われる。少なくとも、伝統的な両立論や非両立論に代わる選択肢を模索しようという動向を、この時点でのフランクフルトに見出すことはできない。また、この反例に対する最初の反応のうちにも、こうした動向は見出されない。この反例に対する最初の反応は、この反例のうちに僅かばかりの選択の余地を捜しだすことによって、伝統的な非両立論の枠内でこの反例を処理しようというものであった [4]。 しかし、その後の議論の蓄積のなかで、新たな選択肢が生成してくることになる。フィッシャーの半両立論である。

2 フィッシャーの半両立論

 フィッシャーによれば、半両立論は以下のように定式化される。「道徳的責任は因果的決定論と両立可能であるが、無差別の自由は両立可能ではない」。実際、こうした主張そのものは何ら目新しいものではない。それは伝統的な両立論を踏襲したものにすぎない。フィッシャーの功績はこうした主張そのものにではなく、むしろ道徳的責任を問うための条件をより精緻にしたところにある。フィッシャーはそのための装置として、伝統的な二つの自由概念に換えて、二つのコントロール概念を用いる。彼によれば、道徳的責任があるために行為者が統制的コントロール(regulative control)をもっている必要はなく、誘導的コントロール(guidance control)をもってさえいれば十分である(Fischer, 1994, ch. 7)。フィッシャーによれば、行為者が統制的コントロールをもつと言われるのは、実際とは違った行為を遂行できた場合である。したがって、道徳的責任は統制的コントロールを必要としないという主張は、実際には、道徳的責任は無差別の自由を必要としないという主張に同じである。しかしながら、誘導的コントロールは自発性の自由と同一視されうるものではない。大雑把に言えば、行為者が誘導的コントロールをもつと言われるのは、行為者が自ら主体的にその行為を誘導した場合である。フランクフルトの反例では、Aは民主党候補に投票しようという意図をもち、自ら主体的に民主党候補に投票するという行為を誘導している。もしBの強制が働いたとすれば、Aが民主党候補に投票するのを誘導しているのはBということになろう。

 このように、誘導的コントロールを道徳的責任の必要十分条件とする考え方は、フランクフルトの反例に対するわれわれの直観を反映している。しかしながら、どのような場合に、行為者が誘導的コントロールをもつと言えるのであろうか。この点を明確にしないかぎり、誘導的コントロールによる道徳的責任の説明は、われわれの直観を反映させるためのアドホックな説明方式にすぎないであろう。フィッシャーによれば、行為者が誘導的コントロールをもつための条件は、行為が理由に対して少なくとも弱くは対応していることである。以下では、この条件について検討していくことにしよう。

 もし誰かが洗脳されたせいで隣人を殴るとすれば、殴るべきではない理由をもっていたとしても隣人を殴ることになろう。このような場合に、この行為者に道徳的責任があるとは考えられない。道徳的責任が行為と理由との対応関係(reasons-responsiveness)を要求するという主張は、こうした直観を反映している。しかし、道徳的責任のために、行為と理由はどの程度対応していればよいのだろうか。実際、その程度の違いにはさまざまな段階がありうるであろう。しかし、フィッシャーはこれを〈強い対応関係〉と〈弱い対応関係〉の二種類に分けて考察している。彼によれば、行為と理由との間に〈強い対応関係〉が成立するのは、違った行為をすべき十分な理由があるならば、つねに違った行為がなされる場合であり、〈弱い対応関係〉が成立するのは、違った行為をすべき十分な理由があった場合に違った行為がなされるような可能世界が少なくとも一つある場合である(ibid., pp. 164-8)。

 なぜ道徳的責任に〈強い対応関係〉は不必要なのだろうか。たとえば、私は原稿の締切りがあったにも関わらず野球を見に行ってしまい、原稿を執筆しなかったとしよう。このとき、原稿を書くべき十分な理由があったのだから、私の行為は理由と強く対応してはいない。もし道徳的責任に〈強い対応関係〉が必要であるとすれば、私は道徳的責任を問われえないことになろう。これは私にとって有り難いことではあるが、残念ながら世間の目はそれほど優しくはない(ibid., pp. 165-7)。それでは、なぜ道徳的責任には〈弱い対応関係〉が必要なのだろうか。違った行為をすべき十分な理由があったとしても、違った行為がなされる可能性がまったくない場合を考えてみよう。もし私が重度の麻薬中毒者であるとすれば、麻薬を止めようという十分な理由があったとしても、麻薬に手を出さずにはいられないであろう。もし道徳的責任に〈弱い対応関係〉が必要ないのだとすれば、私はこの行為に対して道徳的責任を問われるかもしれない。しかし、もはや私の身体が麻薬を我慢できるような状態にはないとすれば、その道徳的責任を問うのは適切ではないであろう(ibid., pp. 161-2)。

 ある行為について道徳的責任が問われうるためには、それとは違った行為をすべき十分な理由があった場合には、その違った行為がなされるような可能世界が少なくとも一つ存在しなければならない。こうした主張によって、われわれは非両立論を支持することになりはしないだろうか。というのも、このような可能性があったとすれば、行為を選択する余地があったようにも思われるからである。しかしながら、こうした疑いは正しくない。なぜなら、違った行為がなされる〈可能性〉があったという事実は、行為者が違った行為をする〈能力〉をもっていたことを含意しないからである。たとえば、フランクフルトの反例においても、事態が以下のように進行することはありうるかもしれない。Aは心変わりして共和党候補に投票しようとする。しかし、Bはこの肝心なときに風邪をひいて寝込んでしまっていた。その結果、Bに邪魔されることなく、Aは共和党候補に投票することとなった。

 実際、こうしたシナリオは、反例のいかなる前提条件とも矛盾しない。このことは、Aが脳に装置を埋め込まれているという前提の下でも、Aが心変わりして共和党候補に投票する〈可能性〉があったことを示している。しかし、それはAに選択の余地があったことを意味しない。実際、このようなシナリオは、Aが自ら選ぶことのできるような選択肢ではない。もしAに選択の余地があったとすれば、Aは自ら事態の進行を変える〈能力〉をもっていたのでなければならない。すなわち、AはBの支配に抵抗し、自分の手で脳の装置を無効にして、共和党候補に投票することができなければならない。しかし、フランクフルトの反例において、Aがこのような〈能力〉をもつことは認められていない。前提により、Aは自分の脳に装置が埋め込まれていることを知らされていないのである。脳の装置の存在をしっていないのであれば、脳の装置を無効にすることなどできないであろう。しかし、Aがこのような〈能力〉をもっていなかったとしても、世界の側がAが共和党候補に投票することを許容しうるとすれば、Aが共和党候補に投票する〈可能性〉は残されているのである。

 フィッシャーの道徳的責任の説明においては、このような可能性が残されていることが、フランクフルトの反例においてAが道徳的責任を問われうるための前提となる。実際、違った行為をする可能性がまったく残されていないとすれば、その行為について道徳的責任を問うのは適切ではない(ibid., pp. 172-5)。しかし、そうした可能性が残されている場合には、その行為が実際に理由に対応しているか否かによって、道徳的責任の有無が判別されるのである。フランクフルトの反例では、Aは誘導的コントロールを行使しており、したがって、その行為は理由に対応している。それゆえ、Aはその行為に対して道徳的責任を問われうるのである。もし、Bの強制が働いたとすれば、その行為は理由に対応しないことになろう。その場合、Aはその行為に対して道徳的責任を問われえないことになる。

 このようなフィッシャーの立場は、一種の両立論とも見なされうる。すなわち、道徳的責任を自発性の自由によって基礎づける立場を、行為と理由との〈弱い対応関係〉という条件を付加することによって洗練させたものとも見なされうる。しかしながら、この条件は非両立論者が要求する選択の余地を修正したものに他ならない。このように、フィッシャーの立場の特徴は、両者の性格を併せもつところにあるといえる。それゆえ、半両立論を単なる両立論の一形態と見なすのではなく、やはり第三の選択肢と見なすのが適切であろう。

3 非法則的一元論による半両立論の基礎づけ

 確かに、このようなフィッシャーの試みは、Bの強制が働いている場合と働いていない場合とを差別化することに成功しているように思われる。しかし、グラナンの指摘するように、決定論問題という観点から見たとき、フィッシャーは論点先取を犯しているように思われる。すなわち、行為と理由との間に〈弱い対応関係〉が成立するためには、行為者は違った行為をすべき十分な理由をもつことができなければならない。もし行為者がこうした理由をもちえないのであれば、フィッシャーが道徳的責任のために与えた条件はまったく無意味なものになるであろう。実際、決定論的世界において、行為者がこうした理由をもちうるかどうかは明らかではない。しかし、フィッシャーは道徳的責任は決定論と両立可能であると主張しておきながら、この可能性ついて何ら示していないのである(Glannon, 1997, p. 219) [5]

 実際、フィッシャーは、決定論と道徳的責任が両立しないと考えられる理由は、決定論が選択の余地を奪ってしまうという以外にはないと考えていた(Fischer, 1994, pp. 147-54)。それゆえに、彼は道徳的責任の説明から選択の余地を排除したならば、その両立可能性は維持されると考えることとなった。しかし、グラナンによれば、決定論の問題性はむしろ別のところにある。道徳的責任が問われるためには、その行為を動機づけている心的状態が自律性(autonomy)をもつだけではなく、同時に因果的効力(causal efficacy)をもたなければならない。しかし、決定論はこの二つを両立不可能にするように思われるのである(Glannon, 1997, p. 220)。確かに、自律性が確保されるためには、心的状態は物理的世界における因果関係から逃れていなければならない。しかし、行為者が道徳的責任を問われうるためには、行為者の動機が行為(=物理的結果)に対して因果的効力をもっていなければならない。つまり、心的状態は因果関係に参与していなければならないのである。

 心的状態の自律性と因果的効力は、いかにして両立可能であろうか。グラナンによれば、「非法則的一元論」を採用することによって可能となる(ibid., p. 221-7)。D・デイヴィドソンによって提唱されたこの理論は、心身の相互関係を認めることによって、心的状態の因果的効力を確保しつつ、両者の間に法則的関係があることを否定することによって、心的状態の自律性を確保しようとする試みである。しかし、心身の法則的関係を否定するのであれば、いかにして心的状態の因果的効力が確保されうるであろうか。デイヴィドソンは「心的出来事と物理的出来事は同一である」という心身一元論と、「因果関係は出来事間の外延的関係である」という主張によって、この困難を解決しようとする。

 心身の法則的関係を否定するならば、因果関係は物理的世界にのみ制限されねばならない。したがって、「原因Cが結果Eを惹起した」といった因果言明において、物理的出来事以外はCやEに代入されえないように思われる。その場合、「私は水が飲みたかったので水を飲んだ」という言明は、因果言明ではないということになろう。しかしながら、このような帰結が導かれるのは、心的出来事とそれに対応する物理的出来事とを別個のものとして捉えた場合に限られる。実際、水が飲みたいという欲求を私がもったとき、それに対応した脳状態が生起することになる。デイヴィドソンによれば、それらは同一の出来事トークンなのである。このように考えるならば、心的出来事を因果言明に代入することが可能となる。この代入の妥当性を保証するのは、「因果関係は出来事間の外延的関係である」という主張である。かくて、「私は水が飲みたかったので水を飲んだ」という言明は、それ自体では因果法則の例化ではないにも関わらず、因果言明として認められることになる(cf. Davidson, 1993, p. 6)。

 しかし、心的出来事と物理的出来事とを同一視することは、心脳同一説を採ることになりはしないだろうか。その場合、心的状態の因果的効力が確保されるかもしれないが、心的状態の自律性は失われてしまうことになろう。デイヴィドソンはこのような疑いを、心身の法則的関係を否定することによって払拭しようとする(Davidson, 1980, pp. 215-23)。確かに、心的出来事が生じているとすれば、それに対応する物理的出来事が生じていなければならない。しかし、同一タイプの心的出来事が生じていたとしても、同一タイプの物理的出来事がそれに対応している必要はないというわけである。

 このようなデイヴィドソンの試みは、果たして心的状態の自律性と因果的効力の両立に成功しているのであろうか。デイヴィドソンの考えを次のように描写するならば、心的状態が因果的効力をもつことは危うくなるように思われる。「心的なものと物理的なものとの間にはタイプ対応はないが、心的記述をもつ出来事はすべて物理的記述をももつという意味で、個々の心的出来事はすべて物理的出来事と同一である。そして、心的出来事は物理的記述の下でなければ、物理的出来事との因果関係に参与するとは見なされえない」(Kim, 1984, p. 267)。実際、この描像に基づいて、非法則的一元論は随伴現象説(Epiphenomenalism)に過ぎないと批判されてきた。

 おそらく、非法則的一元論がこのように理解されたのは、「因果関係は物理法則によって支持されねばならない」というデイヴィドソンの主張によるものであろう。この主張のゆえに、因果関係が記述間の関係として捉えられ、かくて、物理的性質しか因果関係に参与しえないと結論されることになる。しかしながら、既に述べたように、デイヴィドソンは因果関係を出来事間の外延的関係として捉えていた。したがって、因果関係は物理法則によって支持されねばならないという主張から、物理的性質しか因果関係に参与しえないという結論を導き出すことはできないのである。おそらく、非法則的一元論は随伴現象説にすぎないという批判は、物理的性質しか因果関係に参与しえないという前提を密輸入していると思われる(cf. Burge, 1993, pp. 98-103)。しかし、このような批判が生じてくるということから、少なくとも、その説明が不十分であったことは明らかであろう。心身の非法則性という制約の下で、いかにして心的状態は因果的効力をもちうるのか。このことが示されないかぎり、非法則的一元論の適切さは示されえないであろう。

4 法則性と非法則性の狭間で

 心身の非法則性という制約の下で、いかにして心的状態は因果的効力をもちうるのか。おそらく、これを示そうという試みは幾つもあろう。グラナンがその中から採用するのは、E・ルポアとB・ロウワーの戦略である(Glannon, 1997, pp. 225-7)。彼らによれば、「原因のもつ性質 F が結果に対して因果的に関与する」という主張は、少なくとも二通りに理解することができる。第一に、これを「原因のもつある特定の性質 F1 が結果に対して因果的効力をもつ」を意味するものとして理解することができる。心身関係をこのような関係として捉えた場合、特定の物理的性質が心的結果に対して、あるいは特定の心的性質が物理的結果に対して、物理法則と同じような法則的関係をもつことになる。したがって、その因果的効力を確保しようとするならば、その代償として心身の非法則性を失うことになる。ルポアとロウワーによれば、これは非法則一元論を随伴現象説とする批判者たちが暗黙のうちに前提としていた理解である。しかし、「原因のもつ性質 F が結果に対して因果的に関与する」という主張は、別様にも理解することもできる。すなわち、「原因のもつ性質 F1, F2,..., Fn のあるものが結果に対して因果的効力をもつ」を意味するものとして理解することもできるのである。ルポアとロウワーによれば、心身の非法則性と心的状態の因果的効力とを両立するためには、このような理解を採用すべきである(LePore & Loewer, 1987, pp. 634-6)。

 確かに、ルポアとロウワーの戦略は、心身の非法則性と心的状態の因果的効力との両立に成功しているようには思われる。しかし、道徳的責任という観点から見たとき、この成功は十分な成果を上げているのであろうか。心身の法則的関係を否定することによって、心的状態と行為(=物理的結果)との関係がアトランダムなものにされてはいないであろうか。そうであるとすれば、たとえ心的状態が自律性と因果的効力とを併せもつとしても、それによって惹起された行為に対して道徳的責任を問うことはできないように思われる(Honderich, 1993, pp. 36-8)。というのも、ある程度の心理的ないし心理-物理的な法則性を前提としなければ、道徳的責任という概念は成立しないように思われるからである。たとえば、ある物理的条件が与えられたならば、われわれはそれについて考量し、それに基づいて行為することになる。そして、これら三要素の間にある程度の法則的関係があることを前提しているからこそ、そこから逸脱した行為に対して賞賛や非難といった道徳的感情を生じさせることになる [6]。 心身関係をアトランダムなものにすることは、道徳的感情が生じるための前提条件を奪ってしまうように思われる。

 ルポアとロウワーもまた、こうした点に配慮していなかったわけではない。彼らは、上述の方法によって心身の法則性を一旦否定した上で、反事実的条件文テストによって、心的状態と行為との間にある程度の法則性を回復しようとする。たとえば、「もしジェリーが会議に出席するとフレッドが信じていなかったのであれば、フレッドは会議に出席しなかったであろう」という反事実的条件文が真であるとすれば、フレッドの信念と行為との間には、ある程度の法則性が認められるというわけである。しかし、このようなテストによって確立される法則性は、例外対処条項(ceteris paribus clause)が付されて初めて成立するような、すなわち、「その他の条件が同一であるならば」という制約の下でのみ成立するような〈緩やかな法則性〉でしかない。実際、もしフレッドが上述の信念をもっていたとしても、会議に出席したくないというより強い欲求をもっていたとすれば、フレッドは会議に出席しないであろう。ルポアとロウワーは、このような〈緩やかな法則〉と、例外を許容しない厳密法則(strict law)とを区別した上で、因果法則には厳密法則が要求されるが、心身の相互関係には〈緩やかな法則〉しか要求されないとする(LePore & Loewer, 1987, pp. 636-42)。

 このように、心身関係を字義通りに非法則的な関係として捉えるのではなく [7]、 そこに例外を許容するような〈緩やかな法則〉を認めるならば、道徳的感情を生じさせるための前提条件は充足されるかもしれない。実際、デイヴィドソンもまた、因果関係と心身関係との両方に法則性を認めつつ、厳密性という観点から二つの法則性を差別化していた(Davidson, 1980, pp. 215-23)。ところで、ここで提示された〈緩やかな法則性〉は、われわれの要求に応えうるものであろうか。確かに、この法則性を「例外を許容するもの」と表現した場合には、われわれの要求に応えうるように思われる。しかし、「その他の条件が同一であるならばという制約の下でのみ成立するもの」と表現した場合には、その法則性は厳密すぎるように思われる。というのも、因果法則の典型例である物理法則もまた、この程度の法則性しかもちえないように思われるからである。実際、ある物理学の実験おいて常に同じ数値を得るためには、完全に同一の条件が用意されねばならないであろう [8]

 もし心理法則や心理-物理的法則がこのような性格をもつとすれば、同じタイプの条件が与えられたならば、同じタイプの考量を経て、同じタイプの行為が遂行されることになる。もちろん、そうであるとしても、ある環境の下で生じる考量と行為が画一化されてしまうわけではない。というのも、ここでの「同じタイプの条件」とは、行為者の誕生からそれまでの過程をも含むものだからである。誕生以後の過程は行為者毎に異なるであろうから、ある環境の下で生じる考量と行為には、ある程度の法則性と逸脱が認められることになろう。それゆえ、心理法則や心理-物理的法則がこのような性格をもつとしても、われわれが道徳的感情を生じさせるための前提条件は充たされることになる。

 しかし、半両立論者は、こうした条件が充たされただけでは満足しないであろう。半両立論者が要求すべきは、心的状態の自律性だからである。この要求が充たされるためには、誕生以後の過程をも含めた条件が同一であったとしても、違ったタイプの考量(=心的状態)が生起しうるのでなければならない。さもなくば、心的状態が因果法則の支配を免れているとは言えないであろう。確かに、決定論的世界において道徳的責任を問おうとするとき、因果関係と心身関係との両方に法則性を認めて、厳密性という観点から二つの法則性を差別化するという戦略は有効であると思われる。しかし、ここで与えられている〈緩やかな法則性〉は、半両立論者の要求を充たすには依然として厳密すぎるのである。

おわりに

 以上、フィッシャーの半両立論をその動機から始めて、その基礎理論へと検討を進めてきた。それを踏まえるならば、本稿としては、半両立論に対して些か否定的な評価を下さざるをえない。確かに、フランクフルトの反例に対するわれわれの直観を反映している点では評価しうるかもしれないが、未だ支持する十分な基礎をもちえているとは言いがたい。もっとも、本稿で検討したような非法則的一元論でなければ、半両立論の基礎理論たりえないというわけではないかもしれない。したがって、本稿の半両立論に対する否定的評価は直接的なものではありえない [9]。 適切な基礎理論を提示することは、半両立論者の今後の課題ということになろう。

 われわれは物理的世界の住まう人間として、物理的世界を決定論なものとして捉えようという世界観と、自由意志をもつ存在者という人間観との対立のなかにいる。本稿冒頭に素描した伝統的な非両立論と両立論は(その描写は些か類型的すぎるかもしれないが)、そのどちらかを一方的に支持することによって、他方を斥けようとするものであったといえる。しかし、そのような態度は、些か短絡的すぎるのではないだろうか。フィッシャーの半両立論は、どちらか一方に偏るのではなく、その間に第三の途を求めようした試みに他ならない。確かに、本稿の診断によれば、未だ完全な解決に辿り着いているとはいえない。しかし、そうした試みそのものは支持されて然るべきであろう。

[1] 無差別の自由を道徳的責任の必要条件とする立場が、必ずしも非両立論を導くわけではない。たとえば、A・ケニーが無差別の自由を道徳的責任の必要条件とした両立論を展開している(Kenny, 1978, pp. 22-34)。
[2] 万人がこうした直観を共有するわけではないかもしれない。とりわけ、非両立論者はこうした直観を拒絶しようとするかもしれない(cf. Fischer, 1999, pp. 110-2)。しかし、Aに道徳的責任があると断定するのには躊躇われるとしても、Bが介在したケースと介在しないケースとを等しく取扱うことに抵抗を感じずにはいられない。このことは、非両立論的立場を疑うための動機としては十分なものであろう。
[3] このようなチザムの立場は、フランクフルトによって批判されている。なぜわれわれ人間だけが道徳的責任の主体であるのか。すなわち、われわれが手を挙げるときに「不動の動者」のごとき特権をもつにも関わらず、なぜウサギは跳ねるときにそうした特権をもたないのか。チザムはこの点を説明していないというのである(Frankfurt, 1971, pp. 17-8)。
[4] しかしながら、フィッシャーが批判しているように、この反例のうちに見出されうる選択の余地は道徳的責任を基礎づけるに足るほど強いものではない(Fischer, 1994, pp. 134-47)。もし私が地上10mの空中に置かれたとすれば、もがきながら落下するか、潔く落下するかを選択する余地は与えられるかもしれないが、いずれにせよ落下せねばならないであろう。このような些細な選択の余地があったからといって、この落下によって生じた不都合に対して、私が道徳的責任を負わねばならないことにはならないであろう。
[5] この点に関しては、フランクフルトも同罪である。彼によれば、道徳的責任が問われうるためは「第二階の欲求」すなわち「意志の自由」を持っていなければならない(Frankfurt, 1971, p. 19-20)。しかし、それが決定論と両立可能であることを彼は示してはいない。
[6] 非両立論者的立場からすれば、考量と行為の二つの段階に逸脱が認められねばならないであろう。しかし、非両立論的立場からすれば、考量において逸脱が認められれば十分である。
[7] ここで「字義通り」という表現を使用するのは、些か不適切かもしれない。というのも、デイヴィドソンは自らの立場を non nomological monism とではなく、anomalous monism と表現しているからである(日本語においては、どちらも「非法則的一元論」と表現されることになろう)。それにも関わらず、英語圏においてさえ、anomalous が non nomological として解されてきた経緯がある(cf. Davidson, 1993, pp. 8-11)。
[8] 物理法則がこの程度の法則性しかもちえないとすれば、それ以上の法則性をもつ厳密法則とは一体何なのであろうか。デイヴィドソンが念頭に置いていたのは、宇宙全体を閉じたシステムとして取扱うような法則である。彼によれば、物理学が完成した暁には、物理法則はそのような厳密法則となる(Davidson, 1993, pp. 8-9)。これに対して、心的なものを閉じたシステムとして取扱うことはできないので心理法則は厳密法則とはなりえず(Davidson, 1980, pp. 230-3)、心的なものは物理的なものへと還元できないので心理-物理的法則は厳密法則とはなりえない(ibid., pp. 215-23)。このような二つの法則性の相違を認めるとしても、以下に述べるように、半両立論的観点からすれば、彼らの与えている〈緩やかな法則性〉は厳密すぎるように思われる。
[9] 本稿では半両立論をその基礎理論との関係において考察したために、その道徳的責任の理論として取扱いは不十分であったかもしれない。本稿では検討できなかったが、半両立論を含めてフランクフルトの反例の取扱いをめぐって議論が続けられている模様である(cf. Fischer, 1999, pp. 108-30)。

文献表

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Davidson, D. 1980 Essays on Actions and Events, Clarendon Press.[邦訳:服部裕幸、柴田正良訳『行為と出来事』(抄訳)、勁草書房、1990年]
----- 1993 "Thinking Causes", in J. Heil & A. Mele (eds.), Mental Causation, Oxford UP., pp. 3-17.
Fischer, J. M. 1994 Metaphysics of Free Will : An Essay on Control, Blackwell.
----- 1999 "Recent Work on Moral Responsibility", in Ethics 110, 1999, pp. 93-139.
Frankfurt, H. G. 1969 "Alternative Possibilities and Moral Responsibility", in Journal of Philosophy 66, pp. 829-39.
----- 1971 "Freedom of the Will and the Concept of a Person", in Journal of Philosophy 68, pp. 5-20.
Glannon, W. 1997 "Semicompatibilism and Anomalous Monism", in Philosophical Papers 26, pp. 211-31.
Honderich, T. 1993 How Free Are You? : The Determinism Problem, Oxford UP.[邦訳:松田克進訳『あなたは自由ですか? ── 決定論の哲学』、法政大学出版局、1996年]
Kenny, A. 1978 Freewill and Responsibility, Routledge & Kegan Paul.
Kim, J. 1984 "Epiphenomenal and Supervenient Causation", in Midwest Studies in Philosophy 9, pp. 257-70.
LePore, E. & Loewer, B. 1987 "Mind Matters", in Journal of Philosophy 84, pp. 630-42.

付記 本稿は日本学術振興会研究奨励金、文部省科学研究費補助金による研究成果の一部である。
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