北海道哲学会『哲学年報』第57号、2011年3月、21-38頁
「道徳法則はいわば純粋理性の事実として、われわれがア・プリオリに意識しており、必当然的に確実な事実として与えられている」(Kant, K. p. V., AA V, 47)[1] 。 そのような主張を仮に認めたとしても、私たちは道徳的行為者として生まれてくるわけではない。「人間は教育によって初めて人間となりうる」(Kant, Pädagogik, AA IX, 443)。私たちは非難、是認、賞賛といった社会の反応を背景として道徳的自己を形成していく。しかし、「われわれは規律化され教化され文明化された時代を生きてはいるが、道徳化された時代を生きるのはまだまだ先のことである」(Kant, ibid., AA IX, 451)。そうだとすれば、社会の反応は如何にして私たちを道徳的行為者たらしめうるのか。私たちが道徳的実践と呼んでいるものは、本当に「道徳的」と呼ぶに相応しいものなのか。
こうした疑問に対して、P・F・ストローソンは、いわば問いそのものを斥ける形で応答した。彼の提案には、広く受け容れられてきた近代的な道徳構想、そこで前提とされていた行為者像を覆すような思想が含意されていた。しかし、そうした含意はこれまで見過ごされてきたように思われる。本稿では、まずストローソンの提案を確認した上で、それを独自の仕方で発展させているS・L・ダーウォルとB・ウィリアムズの所説を検討する。こうした道筋を辿ることで、ストローソンの提案から導かれうる道徳構想の一つを、ウィリアムズの所説のうちに確認することになる。
私たちの道徳的実践は本当に「道徳的」と呼ぶに相応しいものなのか。この問いは道徳的実践の正当化に関わる。この点に関して、「帰結主義者」は次のように主張する。断罪や支持といった実践は社会的に望ましい行動統制として有効であり、その有効性によって道徳的実践は正当化される[2] 。 これに対して、自由意志論者は次のように主張する。正しい処罰や断罪は道徳的な罪を含意する。道徳的な罪は道徳的責任を含意し、道徳的責任は自由を含意する(FR: 46)。
ストローソンによれば、道徳的実践はその有効性によっては正当化されえないが、しかし決定論と両立しない自由意志を前提せねばならないわけではない。ストローソンは、私たちの行為実践において感情や意図が果たしている役割の重要性に注目する。実際、悪意をもって手を踏まれるのと、偶然に手を踏まれるのでは、痛さは同じであっても悪意をもって踏まれた方がいっそう腹立たしい。同じくらい自分の利益になるとしても、私たちは善意に対するほど偶然に対しては感謝しない(FR: 48-49)。私たちは行為のやりとりを通じて、意図や感情をやりとりする。「このような日常的な人間相互の関わりあい」(FR: 51)の内で、感謝、憤慨、赦し、怒りといった感情や態度が生起する(FR: 48, 52)。このような「応対的態度」(reactive attitudes)は人称性を要求するものであり、私たちがそうした態度を単なる対象(object)に向けることはない(FR: 52)。このような態度の使い分けは「人間本性と人間共同体の成員資格」(FR: 58)に由来する「人間生活の一般的枠組み」であり、私たちの道徳的実践はそこに基礎をもつ。この基礎的枠組みは決定論の真偽によって揺らぐものではない(FR: 55-6)。
しかし、「現実に私たちはそのように生活しているのだ」と改めて主張することが、如何にして正当化となりうるのだろうか。行為実践に注目することで、私たちがどのような行為者のどのような行為に対して、道徳的非難や道徳的支持を表明するのかは見えてくるかもしれない。しかし、そうした非難や支持の適切さが示されるわけではない。たとえば、私たちが誰かに対して応対的態度を示すとき、私たちは彼を道徳共同体の一員と見なしているのであり、そこには彼に対する一定の期待と要請とが込められている。ストローソンによれば、そうした期待や要請に応える見込みのない精神異常者に対しては応対的態度は留保される(FR: 58-9)。しかし、G・ワトソンの指摘するように、ある残虐な殺人鬼が私たちの道徳的期待や要請に応える見込みがないからといって、私たちは彼に対する道徳的非難を留保したりしない。むしろ、彼のような道徳的無法者こそ、道徳的非難の「典型的な候補者」なのである(Watson 1987: 238-9)。
さらに、そのような残虐な殺人鬼が誕生した背景に、彼が幼少時より被ってきた虐待と差別があったことを知ったとすれば、私たちは彼に対する非難を幾分は和らげることになろう。ワトソンの指摘するように、「応対的態度は行為の解釈に依存する」(ibid.: 223)。新たな情報が行為の意味を変えることもある。とはいえ、虐待や差別を被った者すべてが、彼のような残虐な殺人鬼になるわけではない(ibid.: 246)。「自己形成の環境における不幸」(FR: 52)は、道徳的非難を留保すべき理由とはならない。しかも、虐待や差別の犠牲者に対するこのような慈悲深さは、自分の喉元に刃物を突きつけられると消え失せてしまう(Watson 1987: 246)。私たちの感情や態度は移ろいがちであり、「道徳的実践はストローソンが想定していたほど哲学的に無垢なわけではない」(ibid.: 221, cf. 253)[3] 。
実際、私たちの道徳的実践がすべて適切なものであったならば、そもそも正当化の問題は生じてこない。私たちが誰かを非難するときに、その非難は如何にして正当化されうるのか。それがそもそもの問いであった(FR: 47)。そうした疑問を抱えた者たちが、現実を指し示されたところで、答えを与えられた気がしなかったのは当然といえる。かくて問題は再燃する。ある者は道徳的実践に正当化を与えるためには、やはり「自由意志」が必要であると考えた[4]。また、ある者は責任能力のある行為者には、自らの欲求に対する評価的な態度、すなわち、欲求の好ましさを判定する「二階の意志作用」が必要であると考えた。「一階の欲求」が「二階の意志作用」に一致しているとき、その行為者は自らの意志で行為している。それゆえに、そうした場合にのみ彼はその行為に対して道徳的責任を問われうるというわけである(Frankfurt 1971: 22-5)。
しかし、ストローソンに従えば、こうした試みはすべて事実を「過剰に知性化している(overintellectualize)」ということになろう。「道徳的生活の本質的な部分を形成しているのは、態度と感情の複雑な網の目」であり、「その網の目の内部では、修正、方向転換、批判、正当化の余地は際限なく残されている」。しかし、「態度という一般的枠組みの存在は、人間社会の事実に関する所与であり」、「それは外部からの「合理的」な正当化を要求してもいなければ、またそれを許すものでもない」(FR: 64)。私たちが誰かを非難したときに、その非難の正当性が問われる場面はありうる。しかし、ストローソンに従えば、こうした問題に対して道徳的実践の外部から解決を与えることはできない。ノイラートの船のように航海(後悔)を続けながら補修してゆくしかないのである。
ストローソンの考えに従うならば、私たちの生活形式がすでに道徳を含んでおり、それに対して更に正当化を与えようとするのは無意味だということになる。そうした試みは実践の外部に立ちうるのでないかぎり不可能であるが、私たちは実践の外部に立つことはできないのだから。その場合、慣習や礼儀から道徳を峻別することができなくなりはしないか。しかし、こうした区別もまた実践の外部に立たなければ不可能であるように思われる。そうすると、慣習や礼儀が共同体ごとに異なるように、道徳もまた普遍的なものではなく、共同体ごとに異なることになりはしないだろうか。しかし、ダーウォルは応対的態度に独自の解釈を施すことによって、道徳的実践を出発点としつつカント倫理学を再構築しようと試みている。
ダーウォルは言語行為が充たすべき適切性条件(felicity conditions)に着目する。例えば、ある発話が命令と見なされるためには、命令文が発話されるだけでは充分ではない。発話者の権威や聞き手の理解力など、幾つかの適切性条件が充たされていなければならない。同じように、「Aすべきである」という規範言明も、それ自体では誰にもAすべき理由を与えない。誰かが自分はAすべきであると認めるためには、その者は発話者に権威(authority)があり、自分に応答責任(accountability)があることを認めていなければならない。このような、その妥当性が互いの権威と応答責任とに基づく理由を、ダーウォルは「二人称的理由」(second-personal reasons)と呼ぶ(SPS: 8)。彼によれば、道徳的言明はそれ自体では行為の理由を与えるものではなく、その動機づけの力を二人称的理由に負っている。「あらゆる種類の二人称的理由は、二人称的理由を提示する権威を前提しており、二人称的理由はもはや二人称的立場を前提としない[非人称的の]価値命題や権利命題には還元できず、そこから導出することもできない」(SPS: 59)。
ダーウォルは二人称的理由を基礎として道徳を構築しようとする。この企図において、応対的態度は二人称的理由の担い手として再解釈される。たとえば、憤慨や義憤とは、ある行為の即時中止、謝罪や補償といった「対応要請」(RSVP)を相手に提示している。すなわち、これらの行為をすべき二人称的理由を相手に与えることが意図されている。これに対して、軽蔑や嫌悪は一方的な感情の表出であり、相手に対する「対応要請」は含まれておらず、応対的態度ではないとされる(SPS: 40-2, 70-7)。
それゆえ、応対的態度に対する適切な応答とは、単なる望ましい行為の遂行ではありえない。例えば、私が誰かに憤慨しているとすれば、私は彼に対して適切な敬意(respect)を求めている(SPS: 86)。それに対する適切な応答とは、私に適切な敬意を示すことに他ならない。たとえ私に敬意を示すことが、相手の自己利益や公共善に適うのであったとしても、自己利益や公共善に動機づけられた形式だけの「敬意」は私の応対的態度に対する適切な応答とはいえない(SPS: 77-8)。
また、私が相手に対して何かを要求するとき、私は相手がその要求を拒否する自由があることを認めていなければならない(SPS: 49-50)。そうした自由を認めないとすれば、私は相手に対して対象的態度を取っていることになろう。二人称的な関係性においては、行為者は提示された二人称的理由を理解し、その理由に動機づけられて自ら行為するのでなければならない。それゆえ、応対的態度を取るためには、私は相手を「自由で合理的な行為者」と見なしていなければならない(SPS: 74-6)。
自由で合理的な行為者同士が互いの対等な権威を承認するとき、その道徳共同体においては、応対的態度に対する適切な応答責任が道徳的義務を構成することになる(SPS: 92)。しかし、道徳的義務の遂行とは、相手の非難に対して適切に応答することに尽きるものではない。それは命令への服従のような他律的行為ではなく、自律的行為でなければならない。そのためには、非難は内面化されていなければならない。相手に対する応答が「内面化された非難」(internal blame)によって動機づけられることで、その応答は自律的行為となる(cf. SPS: 109-13)。
この相互承認は人間の尊厳に根ざしており(SPS: 126)、各人の貴賤や能力差を問わない。悪人でさえ人間である以上、敬意をもって取扱われる権利がある(SPS: 123)。
「人格であるとは、平等な応答責任を有する共同体の内部において、他者に人格として要求を提示し、また他者から要求を提示される能力と立場を有することである。この二人称的能力は、その者の価値に関わりなく、すべての人格に平等な尊厳を与える」(SPS: 126)。
この主張はカント倫理学の核心に届いている。「汝の人格および他のすべての人格の内に存する人間性を、つねに同時に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように行為せよ」(GMS, AA IV, 429)。応対的態度を向け合うとき、私たちは互いを目的として扱っている。私たちが互いを目的として承認するとき、他者を目的として扱うことは義務化され、そこに「目的の王国」が成立する。このように、ダーウォルは「態度と感情の複雑な網の目」の内に、カント的な道徳的義務の実効性を基礎づける。
しかし、このようにして構築された道徳は道徳空間の矮小化、道徳的実践の貧困化を生じさせないだろうか。確かに、私たちには「最低限の適正行為」をすべき義務はあるかもしれないが(SPS: 94)、賞賛すべき行為をする義務はない(cf. SPS: 96-7)。とはいえ、感謝や賞賛といった肯定的な応対的態度が、私たちの道徳的実践において意味をもたないわけではない。これらもまた行為の動機づけとなりうるのであり、道徳的自己の形成に寄与しうるように思われる。しかしダーウォルは、道徳的義務と道徳的責任との概念的結びつきを主張することで、非難を中心とした否定的な応対的態度に考察を限定してしまう(cf. SPS: 91-5)。また、私たちの道徳的実践のすべてが自由で合理的な行為者同士の相互承認のうちに成立しているのではない。たとえ二人称的理由を提示する相手が存在しないとしても、動物虐待や環境破壊は道徳的に不正なことであるように思われる。しかし、ダーウォル自身も認めるように、二人称的アプローチは相互承認が成立するような理想的な事例にしか適用されうるものではない(SPS: 87)[5] 。「内面化された非難」を基礎とするダーウォルの方法は、私たちの道徳的実践の一部分にしか捉え切れていないように思われる。
確かに、私たちは他者の非難を内面化することで、「何をしてはいけないか」を身につけることはできるかもしれない。しかし、それによって「何をすべきか」が分かるわけではない。それは〈近代道徳の病理〉と呼ぶに相応しい。かつて、G・E・M・アンスコムが嘆いたように、近代道徳の下では、「詐欺、窃盗、誹謗などに不正という一般的な名称を与えることはできるが、何が正義なのかを定義する方法は分からない」。近代においては、「道徳」が有罪・無罪を基調として構想されているからである(Anscombe 1958: 29)。ウィリアムズならば、ここに〈意志の法外な重視〉を付け加えるであろう[6]。「私には理性ないし宗教的啓示によって(…)従うべき道徳法則についての知が与えられており、私にはただそれに従う意志だけが求められる」(SN: 94-5)。意志を重視する傾向は、ストローソンやダーウォルにも見出される。
「応対的態度とは、本質的に、振る舞いのうちに顕現する私に向けられた他者の意志の性質に対する対応である」(FR: 56)。
「二人称的な要求の提示は、相手の意志に対してなされる」(SPS: 49)
〈法のような道徳〉と〈意志の法外な重視〉とは、互いに力を与え合うことによって、〈近代道徳の病理〉を生じさせているように思われる。「犯意がなければ有罪とはならない」(actus non facit reum nisi mens sit rea)。それゆえ、〈法のような道徳〉を斥けるには、「意志の特異な心理学」(Williams 1993b: 73)をも同時に斥けておく必要がある。そのために、ウィリアムズはホメロスの世界にまで立ち返って、責任ある行為者(responsible agent)の概念を練り直している。彼は叙事詩のなかから、責任の概念に含まれうる諸要素を抽出する(SN: 55)[7]。それによれば、「Aに責任がある」とは以下の四つの要素を含みうる(必ずしも、すべてを含んでいる必要はない)。
原因(cause):その悪しき事態はAの行為によって生じた。
意図(intention):Aはそうした事態を意図していた。
状態(state):行為の時点において、Aは正常な精神状態にあった。
応答(response):損害を償うべき者がいるとすればAである。
意志に法外な重要性を与える近代道徳にあっては、意図という要素が重視されることになる。しかし、ウィリアムズの確認するように、古代社会においても意図が重視されていたわけではない(cf. SN: 50-3)。それは、原始的な責任概念が近代的な責任概念へと道徳的に洗練されたということではない。彼によれば、ホメロスの登場人物たちと私たちが、違った責任概念を所有しているわけではない(cf. SN: 61-4)。近代における意図の重視を生み出しているのは、責任概念の相違ではなく、その背景にある政治形態・法体系の相違である。すなわち、近代において責任概念の要素である応答の大部分が個人から国家に委託され、近代国家の理想の一つが臣民の自己統治であったに過ぎない(SN: 65-6)。
ウィリアムズが最も基礎的だと考える要素は〈原因〉であり(SN: 56-8)、それに最も密接に結びつくのは〈応答〉である。「責任をとるという観念が内実をもつためには、賠償や改悛といった償いの意思を示すことが必要であり、その必要性はどんな社会においても認められねばならない」(SN: 90, cf. 58-63)。ウィリアムズは、責任概念にとって基礎的な要素が〈原因〉と〈応答〉であることを、オイディプスの悲劇によって跡づけようとする。確かに、父親殺しはオイディプスの意図したことではなかった。それにも拘わらず、この遠い過去の正当防衛が〈穢れ〉(miasma)となって、テバイの地に災禍をもたらしたとき、彼は自らそれを償うことになる。たとえ意図的ではなかったとしても、自らの為したことはそれ自体として〈重み〉(authority)をもつ(SN: 68-9)[8]。「傷ついた者は償いを求める。ただそれが彼の身に起こったということが、彼に償いを求める権利を与える」(SN: 70)。もし誰かがそれに応答せねばならないとすれば、その事態を生じさせた本人をおいて他に居ない。
もちろん、現代を生きる私たちは〈穢れ〉という魔術的信念を共有してはいない。しかし、責任概念まで共有していないわけではない。そうであればこそ、私たちはオイディプスの物語を悲劇として観ることができる。このことは、自らの為したことの〈重み〉を、私たち自身もまた承知していることを示している(SN: 68-9)。さらに、ウィリアムズは「意志の特異な心理学」に対する批判を、「道徳上の運」というお馴染みの論点によって補強する。「現実には災禍の程度が償いに影響を与えるのであり、それゆえに、償いは本人の意図を超えた運の問題でもある」(SN: 63)。
確かに、道徳的責任を問うに際して、その行為が意図的なものであったか否かは、必ずしも本質的なことではない。しかし、そのことを指摘しただけでは、〈法のような道徳〉を斥けるには十分でない。実際、もし災禍がもたらされなかったならば、オイディプスは自らが為したことの〈重み〉を受け止めることもなかった。そこには、依然として罪の存在が前提されているように思われる。自らの行為を罪として咎める声がなければ、その行為は道徳的に無記ということになるのだろうか。道徳的実践の基盤を二人称的権威に求めるダーウォルにあっては、そうした帰結が導かれうる。「悪事は本質的に責任に関わり、さらに責任は他の道徳的人格に関わる」(SPS: 95)。確かに、必ずしも現実の被害者の存在が要請されるわけではない。非難を内面化し、それを行為規範とするならば、その者が意図的に悪事に加担することはないかもしれない。しかし、内面化された非難は「何をしてはいけないか」を告げるだけである。「何をなすべきか」を道徳において語るためには、〈意志の法外な重視〉を斥けるだけでは十分ではない。罪の概念に支配された〈法のような道徳〉に替わる別の道徳構想を示さなければならない。
ダーウォルは、道徳的義務の自律的遂行のために非難の内面化を要求する。それは道徳的実践において罪を重視することに他ならない。「罪を感じるとは非難が適正だと感じることであり、自分のしたことの責任を負うことである」(SPS: 71, cf. 96-7)。その一方で、ダーウォルは恥を応対的態度から除外する。恥とは「自らを他者の眼差しの対象として見ること」であり、相手に二人称的理由を提示するものではないからである(SPS: 71-2)[9]。これに対して、ウィリアムズは、恥という再帰的な応対的態度(self-reactive attitudes)の重要性を強調する[10]。実際、恥は「何をなすべきか」を教えてくれるように思われる。非難によって動かされるだけの行為者とは違って、理想の自己を思い描く者は、そうではない己を恥として自らの行動を律するように思われるからである。しかし、恥とは他者の視線によって左右されるものであり、それゆえに、他律的でしかないという「カント主義者」の批判がある(SN: 77-8)。恥が自律的な道徳規範を構成しうることを示さなければならない。
確かに、恥の基本的経験とは「見られること」にあり(SN: 78)、「見られること」が恥として経験されるには、本人にとって不都合な他者の反応が存在せねばならない(SN: 80, 99-100)。その限りでは、「カント主義者」の指摘は正しい。しかし、ウィリアムズによれば、恥に他者の視線が不可欠だと考えるのは、恥の文化の過小評価である。「すべてが露見の恐れに存しているのだとすれば、恥の動機づけは全く内面化されていないことになる」(SN: 81)。他者の視線は「想像された他者の想像された視線」(SN: 82)によって代用可能でなければならない。さもなければ、見られなければ構わないことになり、隠蔽工作によって対処しうることになる。恥の文化がそのようなものに過ぎないならば、確かに「前道徳的」(SN: 77)との誹りを免れえない。しかし、恥の文化をそのように捉えるのは「馬鹿げた間違い」である(SN: 82)。
もちろん、恥は必ずしも道徳と結びついているわけではない。世間体を気にかけているに過ぎない場合もある。すでに述べたように、実践の内部にいる私たちに慣習や礼儀と道徳とを峻別する術はない。しかし、恥から道徳的自律性を構成する可能性を示すことはできるように思われる。実際、私たちの自己形成は他者の反応を内面化することによって展開されていく。しかし、私たちが行為実践を通して習得するのは周囲の反応にとどまらない。それは〈濃い倫理的概念〉[11]によって記述されるような行動様式でもありうる。そうでなければ、恥が「感情の共同体」(SN: 80)を形成することはありえても、「共有された倫理的態度」を形成することはありえない(cf. SN: 83-4)。英雄アイアスの悲劇がそれを物語っている。錯乱状態のなかで失態を演じた彼に対して、周囲の対応が冷ややかだったわけではない。しかし、英雄には分かっている。「自らの尊敬する人物から尊敬されるような人生を手に入れることはできないであろう」(SN: 85)。かくて、彼は自らに二者択一を迫る。
「気高き漢の選ぶべき途は、美しく生きるか、美しく死ぬか、二つに一つ」(Ajax, 479)。
ここで英雄を突き動かしている「内面化された他者」(internalized other)は、たんに社会的反応の擬人化にとどまるものではありえない(SN: 83-5)。それは彼が「その反応を自らが重んずるであろう他者」(SN: 84, cf. Ajax, 461 seq.)である。軽蔑すべき人間がどんな眼で見ようと、それを恥じる必要はない(SN: 82)。内面化された他者をこのように理解することで、恥を自律的な動機づけとして捉えることは可能となる。もちろん、私たちの多くは英雄ではない。しかし、私たちもまた「自分がどんな人間であり、どんな人間でありたいのか」(cf. SN: 102)を心に思い描くのであり、不甲斐ない自分を恥じたり、苛立ちを覚えたりする。恥とは必ずしも気高さを要求するものでなく、それゆえ英雄に固有のものではない。
しかし、内面化された他者をこのように理解することで、新たな疑問が生じてくる。それはもはや他者ではなく自己自身なのではないのか。この疑問は道徳的独断論(moral egoism)の疑惑を招くことになる(cf. SN: 84, 100)。この疑惑に対して、ウィリアムズは「グラウコンの思考実験」(cf. Platon, Respublica, 361A-C)を逆手に取ることで応えようとする。この思考実験では、正しい人間と不正な人間が、それに相応しい社会の反応から切り離されている。正しい人間は正しいことをしているにも拘わらず、名誉や褒美を剥奪され、代わりに不正であるとの評判が与えられる。不正な人間は不正を続けているにも拘わらず、正義にかけては最大の評判が与えられる。こうした想定の下で、プラトンは「どちらの人間がより幸せであるのか」を問おうとする。
想定により、私たちは外部の視点から、どちらが正しい人間であり、どちらが不正な人間であるか識別できるとされている。しかし、ウィリアムズによれば、こうした想定そのものが成り立たない。観察者の視点を思考実験の内部に移動させるならば、この「正しい人間」に与えられる記述は以下のようになる。「自分では正しいと考えているが、そうではないかのように扱われている者」。こうした記述の下では、彼が本当に正義の担い手なのか、それとも道徳的妄想に取り憑かれた変人にすぎないのかを判定する手立てはない。また、適切な社会の反応すべてを剥奪されて、それでも彼が堅固不変におのれの道を生きるかどうかさえ明らかではない(SN: 98-9)。
実際、社会の肯定的反応がなければ、私たちは自らの正しさを確信することできないように思われる。確かに、内面化された他者を「自らの倫理的理想の投影」(SN: 98)と見なすこともできる。しかし、私たちはグラウコンの思考実験を眺めるプラトンの視点に立って、自らの意のままに倫理的理想を描くことができるわけではない。自分自身による理想化が含まれているとはいえ(SN: 84)、それは非難や賞賛といった社会の反応を基礎として形成されるのである。こうした社会的制約ゆえに、その自律性には一定の限界が認められねばならない(SN: 100)。しかし、それによって自律性が一切失われてしまうと考えるならば、それは道徳的自己の自律性に対する幻想であろう。私たちは現実を生きながら、周囲の影響を受けつつ、自らそうありたい理想の自己を構想する。内面化された他者は社会的反応に還元できないが、しかし完全に自分の意のままになるわけでもない。二十一世紀に生きながら、ホメロスの英雄たちと同じ理想をもつことはできない。私たちは実際に自分たちが生きている地点から、理想の自己を構想せざるをえない。時代、地域、社会的地位、経済状態などの諸要素を共有する人びとは、多かれ少なかれ似たような理想の自己を思い描くことになろう。とはいえ、そうした人びとのあいだに数的差異しか見出せないわけではない。それぞれが質的にも別個の人格として、それぞれの人生を歩むことになる(cf. Williams 1985: 200-2)。このような社会的制約のなかで得られる自律性こそ、私たちに入手可能な唯一の自律性なのである。
近代道徳は行為者の意志に法外な重要性を与えた結果として、行為者の性格に重要性を認めないことになる(cf. SN: 94)。そうした傾向は、道徳的責任についての近代的理解のうちにも認められる。道徳的非難が適切であるためには、その行為の作為・不作為が行為者の権限の下にあったのでなければならないとされる(cf. Williams 1993b: 72, 1989: 40-45)。しかし、ウィリアムズによれば、「何かに責任を認めるとすれば、それは性格の表現である意志決定や行為に対して責任を認めるのでなければならない」(Williams 1982: 130)。実際、個々人の性格特性がその者の行為を規定している要素の一つであるのは明らかである。また、同じような行為であれば、行為者がどのような人間であっても、同じような道徳的評価が与えられるわけではない。私たちは薄情者には多くは期待しないし、親切な人には多くを期待してしまう。そして、期待が裏切られれば失望せずにはいられない。行為者がどのような人間であるのかという事実は、私たちの道徳的評価に影響を与えうる。このように、私たちの「態度と感情の複雑な網の目」のうちには、すでに行為者の性格が織り込まれている。行為者の意志のみを法外に重視する「意志の特異な心理学」によって、これを適切に捉えることはできない。近代道徳の負荷から解放された「最小主義の道徳心理学」(Williams 1993b: 65)には、(少なくとも)自らと他者の性格が組み込まれていなければならない。
また、抽象的な道徳法則から、具体的な行為指針を導き出すことは容易ではない。なるほど、「嘘をついてはいけない」と言われれば、真理を語るべきだということぐらい分かる。しかし、「人格を手段として扱ってはならない」と言われても、実際にどのような行為をすべきなのかは必ずしも明らかでない。また、功利計算が実行可能なのは、計算に入れるべき要素が限られている場合だけである。しかし、私たちが日常においてこうした困難を抱えることはない。私たちは倫理学者に生き方を教わるのではない。私たちの道徳的資源はすでに社会のうちにある。私たちは〈濃い倫理的概念〉を習得することで、道徳的自己を形成していくのである。
しかし、このことは私たちの道徳的実践に課された制約を示すだけであって、それを正当化してくれるものではない。〈濃い倫理的概念〉とは特定の道徳共同体に固有のものであり、それによって表現される道徳的判断は他の道徳共同体では通用しないかもしれない(cf. Williams 1985: 150, 1995b: 206)。当然のことながら、道徳的信念に関する不一致は生じうるのであり、それは自らの道徳的信念に対する反省を迫ることになる(cf. Williams 1985: 163)。反省の結果として〈濃い倫理的概念〉を完全に放棄せざるをえないこともありうる。あるいは、修正を加えることで、その概念は反省を生き延びるかもしれない。あるいは、まったく調停できず、葛藤を抱え続けることになるかもしれない。いずれにせよ、「不一致は私たちの他者への態度と、自らのものの見方に対する理解とを修正しうる」(ibid.: 133, cf. 158-9)。
仮に、ある〈濃い倫理的概念〉が反省を生き延びたとしても、それによって、その概念が普遍的であることが保証されるわけではない。つぎに不一致が生じたときにも反省を生き延びるという保証はない。私たちはどこまで行っても正当化を与えることはできず、ただ確信を深めうるにすぎない(cf. Williams 1995b: 207-8, 1985: 148-52, 1993c: 209)。しかし、それは悲観すべきことではない。「人びとが自らの倫理的確信に関して、ある程度疑いに開かれているのは善いことである」(Williams 1993c: 203)。実際、ストローソンの言うように、私たちの道徳的実践の内部には修正の余地が際限なく残されている(FR: 64)。私たちが本当に望むものは、正当化ではなく修正であるべきなのである。私たちが自らの道徳的信念を疑いうるという事実こそ、道徳的実践を修正していくことができるという希望を示すものなのである。